兵庫県(播磨)の神社や史跡を巡りました。

赤穂大石神社

赤穂市

春の名残をいかにとかせん

赤穂(あこう)大石神社は、
①大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)以下四十七義士命
②萱野三平命(かやのさんぺいのみこと)
をお祀りしています。

明治元年(西暦1868年)、明治天皇は勅使を東京・泉岳寺に遣わされ、大石内蔵助ら赤穂義士を御嘉賞になりました。
この御沙汰を契機として、大正元年(西暦1912年)に神社が創建されました。
赤穂大石神社(公式サイト)

忠臣蔵

忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、江戸時代中期に起きた「赤穂事件」をもとにした物語です。
元禄14年(西暦1701年)、播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)は、勅使接待役として江戸城に出仕していましたが、城内の「松の廊下」において、接待作法の指南役であった高家・吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)に斬りかかるという事件を起こしました。内匠頭はその日のうちに切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰しとなりました。

当時の武家社会には「喧嘩両成敗」の慣習があり、争いが生じた際には通常、双方に処分が下されるのが通例でした。ところがこの事件では、5代将軍・徳川綱吉が浅野を加害者、吉良を被害者と断定し、吉良にはお咎めがなかったため、大きな波紋を呼びました。

その後、亡くなった主君の無念を晴らすため、筆頭家老の大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしたか)をはじめとする元赤穂藩士の四十七士は密かに準備を重ね、元禄15年(西暦1702年)12月14日深夜、江戸・本所の吉良邸に討ち入り、見事に吉良義央の首級(しゅきゅう)を挙げました。

討ち入り後、幕府は四十七士をいったん細川家・毛利家・松平家・水野家に預けて、最終的に全員に切腹を命じました。
四十七士は、主君の眠る東京・泉岳寺に葬られました。
泉岳寺(公式サイト)

萱野三平(重実)は、「四十八番目の義士」とも称される人物です。
仇討ちへの参加を決意しながらも、忠義と孝行の間で葛藤し、最終的に自刃する道を選びました。
四十七義士と同様に、泉岳寺に墓が建てられています。

浅野内匠頭長矩

風さそふ 花よりもなお 我はまた
春の名残(なごり)を いかにとかせん

大石内蔵助良雄

あら楽し 思いははるる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし

伊和都比売神社

赤穂市

海を見守る、御崎の社

伊和都比売(いわつひめ)神社は、伊和都比売大神をお祀りしています。

伊和都比売大神は、豊受比売(とようけひめ)とも、また播磨国(はりまのくに)一宮である伊和大神(いわのおおかみ)=大穴牟遅神(おおむなちのかみ)の妃神とも伝えられています。
当初は「大園」と呼ばれる前方海上の八丁岩の上に祀られていましたが、江戸時代に現在の地へと遷座されました。
かつては東郷平八郎元帥をはじめ、歴代の連合艦隊司令長官から篤く崇敬され、艦隊を率いて帝国海軍の勇士たちが参拝に訪れたこともあったそうです。
赤穂御崎から望む瀬戸内海の景観は「日本の夕陽百選」にも選ばれています。
伊和都比売神社(公式サイト)

姫路城

姫路城

姫路市

白鷺城

姫路城(ひめじじょう)は、白漆喰(しろしっくい)の美しい外観から「白鷺城(しらさぎじょう)」の愛称で親しまれています。
その歴史は、南北朝時代に赤松貞範が築いた砦に始まり、戦国時代には黒田官兵衛が城代を務め、豊臣秀吉が三層の天守を築きました。現在の天守は、関ヶ原の戦いの後、池田輝政が西国の要として大規模に改築し、慶長14年(西暦1609年)に完成したものです。
明治維新の際、多くの城郭が廃城令によって取り壊される中、姫路城はそれを免れ、現在も廃城以前の姿をよくとどめる貴重な城郭として知られています。
幾度にもわたる修繕を経て、その姿は今日まで守り継がれています。
姫路城 便覧

姫路城

本丸から見た姫路駅方面の景観

城見台公園から見る姫路城

兵庫縣姫路護国神社

姫路市

英霊に感謝

兵庫縣姫路護国神社は、明治戊辰の役以来国難に殉じた兵庫県西南部(播州、但馬)出身の英霊約57,000柱をお祀りしています。
姫路城の大手門手前を東側へ進んだところにあります。
祖国を護る為に戦ってくださった英霊に感謝の誠を捧げました。
兵庫縣姫路護国神社(公式サイト)

その他

  • 伊和神社
  • soraかさい(鶉野飛行場跡)
  • 万葉の岬
  • 柿本神社
  • 明石城跡
  • 射楯兵主神社

地図

以上です。