鹿児島県(中薩摩)の神社や史跡を巡りました。
鹿児島縣護国神社
鹿児島市
鹿児島縣護國神社は、幕末以来国難に殉じた鹿児島県出身の英霊と、鹿児島県にゆかりのある自衛官、警察官、消防士の殉職者、合わせて77,000余柱をお祀りしています。
鹿児島縣護國神社
南洲神社
鹿児島市
南洲(なんしゅう)神社は西郷隆盛命と、明治10年(西暦1877年)に起こった西南戦争の薩軍戦没者の御霊約6,800柱をお祀りしています。
神社の隣には南洲墓地があり、薩軍戦没者2,023名が埋葬されています。
浄光明寺と西郷南洲顕彰館も側にあります。
高台にあるので、ここからも桜島が見えます。
南洲神社
こころざし 成らず城山 おつる日の
壮士いかなる 死を見たりけむ
ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが
なすがまにまに 果てし君かな
討つ人も 討たるる人も 味気なや
同じ御国の 人と思えば
回向には 我と人とを 隔つなよ
看経はよし してもせずとも
※回向(えこう):供養をすること
※看経(かんきん):経文を読むこと
御佛の 浄光明が とこしえに
護るならまし 南洲の夢
西郷隆盛(さいごうたかもり)
生没年:文政10年 – 明治10年(西暦1828 – 1877年)
薩摩藩の藩士です。「維新の三傑」に数えられます。
慶応4年(西暦1868年)、明治政府の東征大総督府の参謀として軍を率いて、江戸城明け渡しに関する幕府との交渉をまとめます。
その後帰郷していましたが、明治4 – 6年(西暦1871 – 1873年)の2年間は参議などの官職をお務めになります。
明治10年(西暦1877年)、西南戦争で南九州を転戦し、9月に城山で自決されました。
南洲神社の御祭神として、お祀りされています。
お墓は南洲墓地にあります。
幕府側であった庄内藩の有志が西郷の言葉をまとめた南洲翁遺訓は、今も語り継がれています。
南洲翁遺訓
照國神社
鹿児島市
照國(てるくに)神社は、島津斉彬(しまづなりあきら)公をお祀りしています。
島津斉彬公は薩摩藩の第11代藩主です。
境内には斉彬公の銅像が、神社隣の探勝園には久光公と忠義公の銅像が建っています。
神社の裏側にある城山の展望台からは桜島が綺麗に見えます。
照國神社
島津斉彬(しまづなりあきら)
生没年:文化6年 – 安政5年(西暦1809 – 1858年)
島津家の第28代当主で、薩摩藩の第11代藩主です。
嘉永4年 – 安政5年(西暦1851 – 1858年)の7年間、藩主をお務めになりました。
「幕末の四賢侯」に数えられます。
照國神社の御祭神として、お祀りされています。
お墓は鹿児島市の福昌寺跡(廃仏毀釈により廃寺)にあります。
福昌寺跡
薩摩義士碑
鹿児島市
岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者をまつる神社があります。治水神社といい、今も1755年(宝暦5)の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝がたえません。
愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野は、今でこそ豊かな土地に生まれ変わりましたが、昔は川床の高さが異なる木曽、長良、揖斐の3河川が合流し、度々大水害をひき起こしていました。
1753年(宝暦3)幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩はさっそく家老の平田靱負(ゆきえ)を総奉行に任じ、約1,000名を派遣しました。
平田は大阪の商人から22万両を借り工事にとりかかりましたが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めました。さらに、監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死する者が続出。完成までの1年3ヵ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していたのです。
平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、1920年(大正9)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられました。
引用:碑の側の掲示より
治水神社は、岐阜県海津市にあります。
治水神社
平田靱負(ひらたゆきえ)
生没年:宝永元年 – 宝暦5年(西暦1704 – 1755年)
薩摩藩の家老で、木曽長良揖斐三川の治水工事の総奉行です。
治水神社の御祭神として、お祀りされています。
お墓は京都市伏見区の大国寺にあります。
大国寺
住みなれし 里も今更 なごりにて
立ちぞわずらふ 美濃の大牧
その他
- 城山展望台
- 西郷隆盛終焉の地
- 西南の役官軍戦没者慰霊塔
- 仙巌園
- 甲突川歴史ロード 維新ふるさとの道
地図
祖国に尽くしてくださった英霊に感謝申し上げます。
以上です。