熊本県(阿蘇、県北、熊本市)の神社や史跡を巡りました。
熊本地震 慰霊碑

南阿蘇村
南阿蘇村熊本地震慰霊之碑
平成二十八(二〇一六)年四月十四日の余震に続き、十六日深夜に発生した熊本地震本震では、本村でも震度六強を記録し、三十一名(関連死十五名を含む)の尊い命が失われました。
ここに震災により犠牲になられました方々を慰霊するため碑を建立し、未来へ語り継ぐとともに、今後は創造的復興を目指して参ります。
令和四年三月吉日
南阿蘇村長 吉良清一
南阿蘇村議会議長 桐原純男
引用:慰霊碑の碑文より
数鹿流(すがる)崩れ|大規模山腹崩壊
かつてこの場所は、国道325号と国道57号が阿蘇大橋によって交わる、熊本市街と南阿蘇村をつなぐ交通の要衝となっていました。しかし、2016年4月16日の熊本地震(本震)により、山頂付近から大規模な斜面崩壊が発生し、国道57号や豊肥本線を飲み込み、阿蘇大橋も崩落してしまいました。この時、国道57号を通行していた1名の尊い命が犠牲となっています。
その後、最先端の無人化施工技術を用いた懸命の工事を経て、およそ4年半の歳月をかけて斜面、国道、鉄道の復旧が完了。この大崩れは、険しい自然と、それに対する人々の挑戦の歴史を後世へ語り継ぐ遺構として、この地に古くから伝わる名から「数鹿流崩れ」と命名されました。
引用:掲示板より
阿蘇神社

阿蘇市
肥後国一宮
阿蘇神社は、
①健磐龍命(たけいわたつのみこと)
②阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)
の夫婦をお祀りしています。
健磐龍命は、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の御子で、第1代神武天皇の孫にあたります。
阿蘇都比咩命はそのお妃です。
神社の創始は、第7代孝霊天皇の御代に、夫婦の御子である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が祖神をお祀りしたことに始まると伝えられています。
阿蘇神社の総本社で、肥後国(ひごのくに)の一宮です。
主祭神をはじめとする一族の神々、あわせて十二柱をお祀りしていることから、かつては「阿蘇十二社明神」とも称されていました。
大正3年(西暦1914年)には官幣大社に列しました。
境内からは、阿蘇五岳の主峰・高岳(たかだけ)を望むことができます。
復旧の歩み
平成28年(西暦2016年)4月に発生した熊本地震により甚大な被害を受けましたが、令和6年(西暦2024年)12月に、全ての復旧工事が完了しました。
菊池神社

菊池市
皇室に忠義を尽くした菊池一族
菊池神社は、
①菊池武時命(きくちたけときのみこと)=第12代当主
②菊池武重命(きくちたけしげのみこと)=第13代当主
③菊池武光命(きくちたけみつのみこと)=第15代当主
をお祀りしています。
菊池家は、元寇の役や南北朝時代に活躍した、名門の武家です。
南北朝時代の正平14年/延文4年(西暦1359年)に起きた「筑後川の戦い」では、南朝方の懐良親王(かねながしんのう)と菊池武光が、北朝方の少弐頼尚(しょうによりなお)を破り、勝利をおさめました。
この戦いは「大保原(おおほばる)の戦い」または「大原(おおばる)合戦」とも呼ばれ、日本三大合戦の一つに数えられています。
神社は、菊池公園に隣接する菊池城本丸跡にあり、境内には菊池神社歴史館や、菊池武時公の銅像、松尾敬宇大佐の銅像などが建立されています。
菊池神社は、建武中興十五社の一つです。
明治天皇の思召(おぼしめし)により、皇室に忠義を尽くした菊池一族の遺徳を顕彰するために創建され、明治3年(西暦1870年)に社殿が完成しました。
明治11年(西暦1878年)には別格官幣社に列しました。
菊池神社 公式インスタグラム
菊池一族

熊本城
不落の名城、熊本城

熊本市中央区
熊本城は、加藤清正が慶長6年(西暦1601年)から築城を開始し、7年の歳月をかけて完成させた城です。高く反り返った石垣「武者返し」や複雑な堀、堅牢な構造により「難攻不落の城」として知られ、明治時代の西南戦争では薩軍の猛攻に耐えました。
熊本城(公式サイト)
復旧のあゆみ

平成28年(西暦2016年)4月に発生した熊本地震により甚大な被害を受けましたが、復旧工事が進み、令和3年(西暦2021年)から天守閣の一般公開も再開されています。
加藤清正

加藤清正(きよまさ)は、熊本城を築き、治水事業などで熊本の礎を築いた戦国武将です。
谷干城

谷干城(たにたてき)は土佐藩出身の軍人で、戊辰戦争での活躍を経て、明治政府で熊本鎮台司令長官に任命されました。
明治10年(西暦1877年)の西南戦争では、薩軍の包囲に対して52日間にわたり籠城し、政府軍の勝利に貢献しました。
銅像は熊本城内の高橋公園にあります。
熊本城を望む、清正公の社|加藤神社

熊本市中央区
加藤神社は、加藤清正(きよまさ)公をお祀りしています。
境内からは熊本城の天守閣や石垣を間近に望むことができます。
また、甲冑姿の「くまモン」が安置されています。
加藤神社は、明治4年(西暦1871年)に熊本藩主・細川家の尽力により、「錦山神社」として熊本城内に創建されました。
明治7年(西暦1874年)に京町へ移り、西南戦争で社殿を焼失しましたが、明治19年(西暦1886年)に再建。
明治42年(西暦1909年)に「加藤神社」と改称され、昭和37年(西暦1962年)に現在の本丸北西の地に移りました。
加藤神社(公式サイト)

英霊に感謝|熊本縣護国神社

熊本市中央区
熊本縣護国神社は、明治戊辰の役以来国難に殉じた熊本県出身の英霊約65,000柱をお祀りしています。
熊本城の近くにあります。
祖国を護る為に戦ってくださった英霊に感謝の誠を捧げました。
熊本縣護国神社(公式サイト)
藤崎八旛宮

熊本市中央区
肥後国の総鎮守
藤崎八旛宮(はちまんぐう)は、
①応神(おうじん)天皇=誉田別命(ほむだわけのみこと)=八幡大神(はちまんおおかみ)
②住吉大神=住吉三神
③神功(じんぐう)皇后=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
をお祀りしています。
第15代応神天皇は、霊験あらたかで、八幡大神、八幡大菩薩として全国でお祀りされています。
住吉三神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が泉国(よもつくに)から戻られて、海で禊祓(みそぎはらえ)をした時に生まれた神様です。
神功皇后は応神天皇の母君で、お腹に御子(後の応神天皇)を宿したまま軍船を率いて新羅に向かい、三韓を征伐なさいました。
神社の創祀は、承平5年(西暦935年)、朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願し、京都・石清水八幡宮から神霊を勧請したことに始まると伝えられています。
社名「藤崎宮」は、勅使が神馬を曳いた際、藤の鞭を地に挿すと芽が出て枝葉が繁ったという伝説に由来すると云われています。また「八旛宮」の「旛」は、天文11年(西暦1542年)に後奈良天皇から賜った勅額に基づくもので、全国で唯一の表記です。
明治10年(西暦1877年)の西南戦争で社殿は焼失しましたが、明治17年(西暦1884年)に現在の場所に再建されました。
大正4年(西暦1915年)には国幣小社に列しました。
藤崎八旛宮(公式サイト)
藤崎八旛宮|九州の神社
その他
- 田原坂公園
- 菊池飛行場ミュージアム
- 野外劇場TAOの丘
- 大観峰 展望所
地図
以上です。