埼玉県の神社や史跡を巡りました。
三峰神社

秩父市
歴史と信仰が織りなす荘厳な空間
三峯(みつみね)神社は、
①伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
②伊弉册尊(いざなみのみこと)
の二柱の神様をお祀りしています。
秩父神社、寳登山(ほどさん)神社と合わせて秩父三社と呼ばれ、古くから人々に崇敬されてきました。
神社の創祀は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の平和を願い、国土をお生みになった二柱の神様をお祀りしたことに始まると伝えられています。日本武尊が道に迷われた際、オオカミが現れて道案内をしたという故事から、三峯神社ではオオカミを神の使い「お犬様」としてお祀りしており、その神霊が宿るお札は火難盗難除けとして篤く信仰されています。
境内には、鮮やかな極彩色で装飾された楼門や拝殿をはじめ、日本武尊の銅像、三ツ鳥居などがあります。標高約1,100mに位置するため、境内から眺望を楽しむこともできます。
三峰神社
秩父神社

秩父市
知知夫国の総鎮守
秩父神社は、四柱の神様をお祀りしています。
①八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)=思兼命(おもひかねのかみ)は、天の岩戸や天孫降臨の段にも登場する、深い思慮を持つ神様として語り継がれています。
②知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)は、八意思兼命の十世の孫にあたり、知知夫国の初代国造を務めたとされています。
③北辰妙見(ほくしんみょうけん)は、北極星と北斗七星の御神霊です。鎌倉時代には、平良文(たいらのよしふみ)=村岡五郎良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合して北辰妙見をお祀りしていましたが、明治時代の神仏判然令以降は、北辰妙見と同一の神様であると考えられている天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をお祀りしています。
④秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)は昭和天皇の弟宮です。
大正11年6月25日、ご成年に達せられた折り、大正天皇より秩父宮の宮号を賜り、秩父宮家をご創立になりました。
昭和28年1月4日、50歳の若さで薨去されました。
毎年12月に行われる秩父夜祭は、日本三大曳山祭の一つに数えられます。
昭和3年(西暦1928年)には國幣小社に列しました。
秩父神社
金鑚神社

本庄市
ご神体は御室山
金鑚(かなさな)神社は、
①天照大神 (あまてらすおおみかみ)
②素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
の二柱の神様をお祀りしています。
本殿を持たず、御室山をご神体としてお祀りしています。
神社の創祀は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、火打石と火鑽金(ひうちがね)を御室山の山中に納め、二柱の神様をお祀りしたことに始まると伝えられています。
明治18年(西暦1885年)には官幣中社に列しました。
金鑚神社
氷川神社

さいたま市大宮区
武蔵國の鎮守
氷川(ひかわ)神社は、
①須佐之男命(すさのおのみこと)
②稲田姫命(いなだひめのみこと)
③大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命(おおくにぬしのみこと)
の三柱の神様をお祀りしています。
須佐之男命は八俣大蛇(やまたのおろち)を退治した神様です。
稲田姫命は須佐之男命のお妃です。
大己貴命は、須佐之男命と稲田姫命の御子孫で、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定して、国譲りをした神様です。
いずれも出雲にゆかりのある神様です。
神社の創祀は、第5代孝昭天皇の御代に、出雲国の肥の川上(ひのかわかみ)に鎮座する杵築(きづき)大社=出雲大社を遷したことに始まると伝えられています。
「ひかわ」という名前も、それに由来すると云われています。
「大宮」という地名は、境内の広い氷川神社が「大いなる宮」と称されたことに由来すると云われています。
武蔵國の一宮です。
明治元年(西暦1868年)には勅祭社に、明治4年(西暦1871年)には官幣大社に列しました。
氷川神社
戦艦武蔵の碑

戦艦武蔵(表の碑文)
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲3連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、式が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1,039名戦死、生存1,329名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。
平成27年10月24日建立
戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
軍艦武蔵会
埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)
設立趣旨(裏の碑文)
連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分祀である武蔵神社が艦内に祀られていました
「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮の地において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
平成27年10月24日
戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
権宮司 東角井真臣 揮毫
埼玉縣護国神社

さいたま市大宮区
英霊に感謝
埼玉縣護国神社は、明治戊辰の役以来国難に殉じた埼玉県出身の英霊51,100余柱をお祀りしています。
氷川神社の近くにあります。
その他
- 寳登山神社
- 川越氷川神社
- 川越城本丸御殿
- 首都圏外郭放水路
地図
以上です。