山口県(下関)の神社や史跡を巡りました。

唐戸市場

下関市

関門の台所

唐戸市場は、ふぐをはじめ、多彩な魚介類を地元漁師から直接購入できる珍しい市場です。飲食店も併設され、新鮮な海の幸をその場で味わうことができます。
唐戸市場(公式サイト)

日清講和記念館

下関市

富国強兵の賜物

日清講和記念館は、明治28年(西暦1895年)に下関で締結された日清講和条約(下関条約)の歴史的意義を後世に伝えるために設立された施設です。
赤間神宮の近くにあります。
日清講和記念館 | 下関観光ガイドブック

赤間神宮

下関市

波の下にも都の候(さぶらふ)

赤間(あかま)神宮は、第81代安徳天皇をお祀りしています。

安徳天皇は寿永4年(西暦1185年)、源平最後の合戦である壇ノ浦の戦いで、平家一門と共にわずか八歳で入水崩御されました。
その御霊をお慰めするため、建久2年(西暦1191年)、勅命により赤間関(現在の下関)に御影堂が建立されました。後にこの御影堂は「阿弥陀寺」と号する寺院となりました。
明治時代入り、神仏判然令により阿弥陀寺は廃され、神社として「天皇社」と改称されました。
明治8年(西暦1875年)に赤間宮、昭和15年(西暦1940年)には赤間神宮と改称し、官幣大社に列しました。
昭和20年(西暦1945年)に米軍の爆撃により建物すべてを焼失しましたが、昭和33年(西暦1958年)に水天門が、昭和40年(西暦1965年)には龍宮造りの社殿が再建されました。

写真中央に見える水天門と同様に、社殿も鮮やかな朱色で彩られています。
神社の正面には関門海峡が広がり、神社の隣には安徳天皇の御陵があります。
関門海峡大橋のすぐ近くにあります。
赤間神宮(公式サイト)

二位尼(安徳天皇の祖母君)

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
波の下にも 都ありとは

昭憲皇太后

今も猶 袖こそぬるれ わたつ海の
龍のみやこの みゆきおもへは

昭和天皇

みなそこに しつみたまひし 遠つ祖を
かなしとそ思ふ 書みるたひに

壇ノ浦古戦場址

下関市

赤間神宮から徒歩15分くらいの場所にあります。
写真左側は源義経「八艘飛び」、右側は平知盛(これもり)「碇潜(いかりかづき)」、後ろは関門海峡大橋。

日本史の節目を刻む関門海峡

西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は七〇〇メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約一〇ノット(時速一八キロ)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
寿永四年(一一八五)三月二四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、ニ位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水(じゅすい)。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経(のりつね)の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。

下関市
引用:像の碑文より

忌宮神社

下関市

熊襲征伐

忌宮(いみのみや)神社は、
①仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)=足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
②神功皇后(じんぐうこうごう)=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
③応神(おうじん)天皇=誉田別命(ほむだわけのみこと)=八幡大神(はちまんおおかみ)
の親子三柱をお祀りしています。

第14代仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子です。
仲哀天皇と神功皇后は、九州の熊襲(くまそ)征伐のために穴門(長門)の地に入り、現在の忌宮神社の地に豊浦宮(とゆらのみや)という行宮(あんぐう)を営まれ、約7年間滞在されました。
その後、おふたりは筑紫の香椎へと向かわれましたが、仲哀天皇はそこで崩御されます。
神功皇后はその後、御神意を受けて朝鮮半島に出兵し、三韓征伐を成し遂げました。

神社の創祀は、この豊浦宮において神功皇后が仲哀天皇をお祀りしたことに始まると伝えられています。
第15代応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の御子で、八幡大神、八幡大菩薩として全国でお祀りされています。

神社の名前にある「忌(いみ)」は、「齋(いつき)」と同じ意味で、とても清らかで神聖なお宮を表しているそうです。
忌宮神社(公式サイト)

乃木神社

下関市

忠義の将

乃木神社は、
①乃木希典大人之命(のぎまれすけうしのみこと)
②乃木静子刀自之命(のぎしずことじのみこと)
をお祀りしています。

乃木将軍は、日清戦争において歩兵第一旅団長として出征し、数々の戦果を挙げ「名将乃木」と称賛されました。
戦後、台湾総督に任命され、現地の治安維持と民政の安定に尽力。質素倹約と清廉潔白をもって役人たちに模範を示しましたが、官僚の反発により短期間で辞任を余儀なくされました。
日露戦争では第三軍司令官として旅順要塞攻略を指揮し、数多の困難を乗り越えこれを陥落させ、日本の勝利に大きく寄与しました。その戦役の最中、長男・次男を相次いで戦場に失いながらも、職責を全うしました。
戦後は戦没将兵の死を深く悼み、全国の遺族や傷病兵の慰問に尽力。
明治四十年(西暦1907年)には学習院長に任ぜられ、皇族を含む子弟に質実剛健の精神を説き、自ら寄宿舎に身を置いて模範を示しました。
大正元年(西暦1912年)、明治天皇の御大葬に際し、静子夫人とともに殉死を遂げ、その生涯を閉じました。

乃木将軍への敬慕の念が広く高まりを見せ、大正9年(西暦1920年)に神社が創建されました。
境内には乃木夫妻の銅像や、復元された乃木将軍の旧宅、乃木将軍ゆかりの品々を展示する宝物館があります。
乃木神社|おいでませ山口

明治天皇

いさをある 人を教への 親として
おほし立てなむ 大和なでしこ

乃木希典

うつし世を 神去りましゝ 大君の
みあと志たひて 我はゆくなり

住吉神社

下関市

長門国一宮

住吉神社は、
①住吉大神の荒魂(あらみたま)
②応神(おうじん)天皇=誉田別命(ほむだわけのみこと)=八幡大神(はちまんおおかみ)
③武内宿彌命(たけのうちのすくねのみこと)
④神功皇后(じんぐうこうごう)=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
⑤建御名方命(たけみなかたのみこと)
をお祀りしています。

住吉大神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が泉国(よもつくに)から戻られて、海で禊祓(みそぎはらえ)をした時に生まれた3柱の神様の総称です。
①底筒男神(そこつつのをのかみ)
②中筒男神(なかつつのをのかみ)
③表筒男神(うわつつのをのかみ)
荒魂(あらみたま)は強く勇ましい御魂、和魂(にぎみたま)は優しく穏やかな御魂をいい、古代より神霊はこの二つの御霊のはたらきによって成り立つと考えられていました。
武内宿彌命は、5代(第12~16代)の天皇に仕えた忠臣として知られています。
建御名方命は、大国主の御子で、建御雷神(たけみかづちのかみ)に力比べを挑み、敗れた神様です。

神社の創祀は、神功皇后が三韓征伐から帰還の折、住吉三神の荒魂を「穴門の山田邑」に祀るよう御神託を受け、祠を建てたことに始まると伝えられています。
大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉と呼ばれています。
長門国(ながとのくに)の一宮です。
明治44年(西暦1911年)には官幣中社に列しました。
住吉神社|おいでませ山口

その他

  • 高杉晋作終焉の地
  • 中山神社・愛新覚羅社

地図

以上です。