佐賀市から英彦山まで、神社や史跡を巡ってきました。

佐嘉神社、松原神社

佐嘉神社

佐賀市

佐嘉(さが)神社は、
①鍋島直正なおまさ)公=佐賀藩の第10代藩主
②鍋島直大(なおひろ)公=佐賀藩の第11代藩主
をお祀りしています。

隣の松原神社は、
①鍋島直茂命=佐賀藩祖
②龍造寺隆信命=肥前国(ひぜんのくに)の戦国大名
をはじめとする鍋島家4柱と龍造寺家3柱をお祀りしています。

松原神社は明和9年(安永元年、西暦1772年)に藩祖鍋島直茂公をお祀りする「日峯社」として創建されました。
佐嘉神社は昭和8年(西暦1933年)に松原神社西側に直正公の御霊を遷して創建され、別格官幣社に列しました。

佐賀城跡の近くです。
境内には復元した鉄製カノン砲、佐賀の七賢人の碑などがあります。
佐嘉神社(公式)
WEB特集「佐賀の賢人たち」|サガバイドットコム

鍋島直正公と佐賀藩

1830年(文政13年)数え年17歳で第10代主となった鍋島直正公がまず取り組んだのは藩の財政再建でした。 自ら率先垂範しつつ領民に律儀な行いや質素倹約を求めるとともに、藩庁の整理改革を進め、立て直しに成功しました。その余慶(よけい)は堅実な佐賀人気質として今に遺されています。
藩財政の基礎となる農業については小作料免除など零細な農民を保護し、安定的な年貢収入を目指しました。 また、藩内の商品の保護育成に心を砕き、積極的な産業奨励により藩の財政を好転させました。
こうした藩政改革を推進するため、公は藩校弘道館を北堀端に移転拡張し、人材の育成に力を注ぎました。この結果、藩士たちは単に学問だけではなく、文武の修業を通じて律儀で質素な佐賀独特の気風を身に着け、藩に貢献できる実用的な人材に成長していきました。
儒学のほか、蘭学にもとくに力を入れ、広く藩内の医師には西洋医学を学ばせました。医師免許を制度化したほか、天然痘の予防のための種痘を、嗣子(しし)直大公を初めとして領内くまなく藩費負担で広めたことは、地域医療に対し責任を持つ近代的な社会福祉のさきがけともいえます。現在の佐賀県医療センター好生館は直正公が設けた医学寮好生館の後身です。
佐賀藩が代々受け持ってきた任務に長崎港の警備があります。ナポレオン戦争やアヘン戦争の影響は鎖国政策をとる極東の日本までも容赦なく襲い、西洋列強のアジア進出の高波が次々に押し寄せていました。公は長崎港の守りを強化する対策として長崎湾口に浮かぶ島々に砲台を築造するとともに、城下の築地反射炉において日本で最初の鉄製大砲の鋳造を成功させます。
米国ペリー艦隊の来航直後に、品川御台場に備える大砲を幕府より依頼され、50門を受注したことは佐賀藩の先進性を物語っています。このほか、理化学分野の研究・開発を担う精錬方を設けて蒸気機関や電信機の研究を行い、 蒸気船を含む洋式船の運用や修理・造船のための艦隊基地三重津海軍所を充実させました。
こうして佐賀藩は長崎を通じて西洋の知識や技術を摂取することにより、国内随一の軍事力を培い、幕末屈指の雄藩となりました。 アームストロング砲に代表される、その軍事力は戊辰戦争の決着を早め、公が訓育登用した佐賀の英才たちは、明治の新国家建設に大きく貢献することとなりました。
引用:佐賀城跡にある銅像の碑文より

佐賀懸護国神社

佐賀市

英霊に感謝

佐賀縣護国神社は、明治戊辰の役以来国難に殉じた佐賀県出身の英霊約35,500余柱をお祀りしています。
祖国を護る為に戦ってくださった英霊に感謝の誠を捧げました。
佐賀懸護国神社 インスタグラム

昭和天皇

國守ると 身をきずつけし ひとびとの
上をし思ふ 朝に夕に

英彦山神宮

添田市

霊峰英彦山

英彦山(ひこさん)神宮は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)をお祀りしています。
天忍穂耳命は、天照大神(あまてらすおおかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生み出された神様です。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父君でもあります。

神社の創祀は、神武天皇が東征の際に、天村雲命(あめのむらくものみこと)を遣わして英彦山に天忍穂耳命をお祀りしたことに始まると伝えられています。

英彦山は、福岡県と大分県にまたがる標高約1200mの山で、古代より神聖な山として尊崇されています。
山形の出羽三山(でわさんざん)、奈良の大峰山(おおみねさん)と並ぶ、日本三大修験道(しゅげんどう)の一つです。
元々の表記は、日の本の神の御子を祀る山に由来して「日子山」でしたが、弘仁10年(西暦819年)に嵯峨天皇の詔(みことのり)により「彦山」に、享保14年(西暦1729年)に霊元法皇の院宣により「英彦山」となりました。

中世以降は修験道の道場「英彦山大権現」として栄えて、明治時代の神仏判然令以降は「英彦山神社」、昭和50年(西暦1975年)には「英彦山神宮」に改称しました。
明治30年(西暦1898年)には官幣中社に列しました。

写真の銅鳥居(かねのとりい)は青銅製で、「英彦山」の扁額は霊元法皇の御宸筆(ごしんぴつ)を謹写したものだそうです。
この鳥居から奉幣(ほうへい)殿までは400段ほどの石段ですが、スロープカーで上ることも出来ます。
奉幣殿より上へ行くには徒歩になります。

英彦山神宮
英彦山スロープカー
英彦山大権現社

花見ヶ岩公園

花見ヶ岩公園

花見ヶ岩公園の階段を上ると、眺めの良い場所があります。英彦山や表参道桜馬場も一望できます。
別所駐車場の近くです。

大刀洗平和記念館

筑前町

大刀洗(たちあらい)平和記念館は、英霊の遺書や遺品、関連資料、戦闘機を展示しています。
かつてこの辺りは陸軍の大刀洗飛行場を中心とした軍都でした。

大刀洗飛行場

大刀洗飛行場は、大正8年(西暦1919年)に大陸や南方への航路の中継拠点として建設されました。
その後も規模が拡張され、周辺には鉄道が敷設され、航空機の工廠(こうしょう)が建設されました。
また、戦闘部隊が配備されたほか、航空技術兵や航空兵を養成する教育部隊も置かれました。
昭和20年(西暦1945年)3月には、米軍による2度にわたる空襲を受け、民間人を含む600人以上の命が奪われました。
大刀洗飛行場は、特攻隊が戦場へ向かう際の中継地点ともなり、多くの隊員がここから出撃基地へと飛び立っていきました。

大刀洗平和記念館
帝国陸軍の航空拠点・大刀洗の歴史

甘木(丸山)公園

朝倉市

甘木公園は、大刀洗平和記念館から6kmほど離れた場所にある大きな公園です。
池の南側の岡の上に、忠霊塔や飛行第98戦隊、大刀洗飛行学校甘木生徒隊などの慰霊碑があります。
大刀洗平和記念館の周辺には、他にも慰霊碑や戦跡があります。
大刀洗戦跡マップ|大刀洗平和記念館

高良大社

久留米市

筑後国一宮

高良大社は、
①高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
②八幡大神(はちまんおおかみ)=応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほむだわけのみこと)
③住吉大神(すみよしおおかみ)
の三柱の神様をお祀りしています。

高良玉垂命は、仲哀天皇の御代、異国の軍勢が九州へ攻め寄せた際、神功皇后(じんぐうこうごう)が筑紫国・四王子嶺(しおうじみね)にて神に御祈願なさったところ、月の光とともに神威を現わされたと伝えられています。
同じくその時、住吉大神は金星の光とともにご出現になられたとされます。
八幡大神は、神功皇后の御子である応神天皇の御神霊です。

高良玉垂命をお祀りする高良大社は、古くより皇室の厚い崇敬を受け、筑後国一宮、九州総社、さらには鎮西十一国の宗廟として広く仰がれてきました。
また、神仏習合のもと、江戸時代の末期に至るまで高良山内には多数の天台宗寺院が建立され、霊場としても栄えていました。

明治よりも前は高良玉垂神社と称していましたが、明治4年(西暦1871年)に高良神社へ改称しました。
大正4年(西暦1915年)には国幣大社に列しました。
昭和22年(西暦1947年)に高良大社へと改称しました。
高良大社(公式)
高良大社|九州の神社

筑紫平野を見渡す

高良大社の展望所から見る北西方面の景観です。
奥に見える山は、九千部山(くせんぶやま)と脊振山(せふりやま)です。
左側に久留米の市街、真ん中から右側にかけて筑後川、右側に手前から奥に走る九州自動車道が見えます。

筑後川の戦い

南北朝時代の正平14年/延文4年(西暦1359年)に、筑後川を挟んで、南朝方の懐良親王(かねながしんのう)と菊池武光(きくちたけみつ)、北朝方の少弐頼尚(しょうによりなお)が激突した合戦です。
この戦いは「大保原(おおほばる)の戦い」または「大原(おおばる)合戦」とも呼ばれ、日本三大合戦の一つに数えられています。
南朝方は、高良山/柳坂/水縄山を拠点として北朝方に対抗し、勝利をおさめました。

千栗八幡宮

みやき町

肥前国一宮

千栗(ちりく)八幡宮は、
①応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほむだわけのみこと)=八幡大神(はちまんおおかみ)
②仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)=足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
③神功皇后(じんぐうこうごう)=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
の親子三柱をお祀りしています。

千栗八幡宮は、聖武天皇の御代の神亀元年(西暦724年)に、肥前国(ひぜんのくに)養父(やぶ)の郡司であった壬生春成(みぶのはるなり)が、ご神託を受けて創建したと伝えられています。

ある日、壬生春成が千栗山で猟をしていた際、一羽の白い鳩が彼の弓の先にとまりました。
その夜、春成の夢に一人の翁が現れ、「その白い鳩は八幡大神の勅使であり、弓矢を司る神である八幡大神がこの地に降臨しようとしている瑞(しるし)である」と告げたといいます。
さらに夢の中で、翁は千個の栗の実を盛った丸盆を春成に授けました。
翌朝、春成が千栗山を訪れると、一夜にして千本の栗の木が生えていたといいます。
しかも、その栗の木々は逆さまに生い茂っていたため、「ちりく」と称されるようになったと伝えられています。

肥前国の一宮とです。
昭和15年(西暦1940年)には国幣小社に列しました。

平成4年(西暦1992年)のバルセロナオリンピックで柔道71kg級の金メダリストとなった古賀稔彦選手は、かつてこの千栗八幡宮の石段で練習していたそうです。
千栗八幡宮(公式)
千栗八幡宮|九州の神社

耳納(みのう)山地を望む

神社のある高台から見る南東方面の景観です。遠くに高良大社のある高良山(耳納山地の西端)が見えます。

新鳥栖駅

新鳥栖駅

夕日がとても綺麗でした(^^)/

その他


  • 與止日女
    (よどひめ)神社
  • 大刀洗駅
  • グライダー山
  • 大原古戦場碑
  • 菊池武光銅像

地図

以上です。